Prof. Dr. Larry AdamsAcademic, Author & Researcher

私はなぜ生きているのか

Why Am I Here?

存在・アイデンティティ・目的・意味をめぐる哲学的・精神的探究

― 創造、人間の尊厳、人生の目的、そしてキリストに見いだす意味 ―

著者:Prof. Dr. Lawrence M. F. Adams

はじめに

「私は、なぜここにいるのだろう」

人生のどこかで、多くの人が一度はこの問いを抱きます。

「私は、なぜ生きているのだろう。」

「何のために働いているのだろう。」

「これだけ努力して、最後に何が残るのだろう。」

「私は誰なのだろう。」

「誰かに必要とされなければ、私の人生には意味があるのだろうか。」

「成功しても満たされないのは、なぜだろう。」

「人生には、本当に目的があるのだろうか。」

こうした問いは、弱い人だけが考えるものではありません。むしろ、自分の人生を真剣に考える人ほど、こうした問いに向き合うことがあります。

学校を卒業したとき。

就職したとき。

結婚したとき。

子どもが生まれたとき。

仕事で成功したとき。

失敗したとき。

大切な人を失ったとき。

病気になったとき。

定年を迎えたとき。

あるいは、何も特別なことが起きていない、静かな夜に突然、

「それで、私は何のために生きているのだろう」

という問いが心に浮かぶことがあります。

現代社会では、人生について考える時間そのものが少なくなっています。

仕事、学校、家族、スマートフォン、SNS、経済、不安、人間関係、将来への備え。

毎日を「どう生きるか」で精一杯で、「なぜ生きるのか」を考える余裕がありません。

しかし、「どう生きるか」という問いの下には、もっと深い問いがあります。

それが、

「私はなぜここにいるのか」

という問いです。

本書は、この問いに簡単な答えを押しつけるための本ではありません。

哲学、心理学、社会科学、歴史、そしてキリスト教思想を通して、人間の存在、アイデンティティ、目的、尊厳、苦しみ、希望、そして意味について一緒に考えるための本です。

そして最後には、一つの非常に古い、しかし今もなお生きている問いへと向かいます。

もし私たちが偶然に存在しているのではなく、創造された存在だとしたら、人生の意味は変わるのではないだろうか。

キリスト教は、人間について驚くべきことを語っています。

あなたは偶然ではない。

あなたの価値は、収入によって決まらない。

学歴によって決まらない。

社会的地位によって決まらない。

フォロワーの数によって決まらない。

他人からの評価によって決まらない。

人間には、創造主との関係の中で与えられた尊厳と目的がある。

そしてキリスト教は、その目的の中心にイエス・キリストを置きます。

本書では、その主張についても丁寧に考えていきます。

第1章

「なぜ?」という問いを持つ人間

人間は、単に生きるだけではなく、自分が生きていることについて考える存在です。

動物は食べ、眠り、危険を避け、子孫を残します。

しかし人間は、

「なぜ私は生きているのか」

と問います。

この「なぜ」という能力は、人間存在の重要な特徴の一つです。

哲学の歴史は、こうした問いの歴史でもあります。

ソクラテスは「吟味されない人生は、生きるに値しない」という趣旨の言葉を残しました(Plato, trans. 1992)。これは、人間が自分自身について問い続ける存在であることを示しています。

アリストテレスは、人間の行為には目的があり、人間の人生にも「善い生」という方向性があると考えました(Aristotle, trans. 1999)。

近代になると、デカルトは「私は考える、ゆえに私は存在する」と述べました(Descartes, 1996)。

つまり、

「私は何者なのか」

という問いは、人類の歴史とともに存在してきたのです。

しかし現代では、この問いが別の形で現れます。

「私は自分らしく生きているだろうか。」

「他人の期待に合わせて生きていないだろうか。」

「私は本当に望んでいるものを追いかけているだろうか。」

「この仕事を失ったら、私は誰なのだろう。」

「SNSで評価されなくなったら、私は価値があるのだろうか。」

これらはすべて、「私は誰なのか」という問いにつながっています。

第2章

生きることと、意味を持って生きること

生きていることと、意味を持って生きることは同じではありません。

人間は食べ、働き、眠り、消費し、年齢を重ねることができます。

しかし、そのすべてを行いながら、

「何のために?」

という感覚を失うことがあります。

ヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所での経験をもとに、人間が苦しみの中でも意味を探し求める存在であることを論じました(Frankl, 2006)。

フランクルにとって、人間は単なる快楽や成功を追い求める存在ではありません。

意味を求める存在でもあります。

だからこそ、人生の物質的条件が改善しても、人間が必ずしも満たされるとは限りません。

家があっても、

仕事があっても、

お金があっても、

人間関係があっても、

「なぜ生きるのか」という問いに答えられなければ、深い空虚感を経験することがあります。

これは「贅沢な悩み」という意味ではありません。

意味は、人間の心理的・精神的生活に深く関係しています。

第3章

「成功すれば幸せになれる」という約束

現代社会は、しばしば成功と幸福を結びつけます。

もっと良い仕事。

もっと高い収入。

もっと大きな家。

もっと良い車。

もっと多くのフォロワー。

もっと高い社会的地位。

もっと多くの資格。

もっと多くの旅行。

もっと多くの「いいね」。

もちろん、経済的安定や生活環境は重要です。

貧困や不安定な生活が人間に大きな負担を与えることは、多くの研究によって示されています。

しかし、物質的成功だけでは人生の意味を説明できません。

Ryan and Deci(2000)は、自己決定理論において、人間の心理的充足には自律性、有能感、他者との関係性が重要だと論じました。

つまり、人間には「物を持つこと」だけでは満たされない基本的な心理的欲求があります。

自分の人生を自分のものとして生きたい。

何かに貢献していると感じたい。

誰かと本当につながっていたい。

こうした欲求は、単純な消費では満たされません。

だから、

「もっと持てば、もっと幸せになれる」

という考え方だけでは、人間の心を説明できないのです。

第4章

「私は誰なのか」

目的の問題は、アイデンティティの問題と切り離せません。

「私は何をするべきか」という問いの前に、

「私は誰なのか」

という問いがあります。

現代人は、自分を多くの役割によって定義します。

私は会社員です。

私は経営者です。

私は学生です。

私は母親です。

私は父親です。

私は教師です。

私は医師です。

私は研究者です。

私は外国人です。

私は日本人です。

私は成功者です。

私は失敗者です。

しかし、役割をすべて取り除いたら、そこに残る「私」とは誰でしょうか。

仕事を失ったら、あなたは誰でしょうか。

財産を失ったら、あなたは誰でしょうか。

若さを失ったら、あなたは誰でしょうか。

他人から評価されなくなったら、あなたは誰でしょうか。

これは非常に重要な問いです。

なぜなら、人間の価値を役割だけに置くと、役割を失った瞬間に自分自身の価値まで失ったように感じるからです。

第5章

他人の目で自分を見る

人間は社会的存在です。

私たちは、他人からどのように見られているかを気にします。

それ自体は悪いことではありません。

社会生活には、他者からのフィードバックが必要だからです。

しかし、問題は、

他人の評価が、自分の価値の唯一の基準になること

です。

SNS時代には、この問題がさらに複雑になっています。

写真。

コメント。

「いいね」。

フォロワー。

閲覧数。

ランキング。

これらは数字として表示されます。

しかし、人間の価値は数字では測れません。

一人の人間の苦しみ。

一人の人間の愛。

一人の人間の誠実さ。

一人の人間の忍耐。

一人の人間の祈り。

これらは「いいね」の数では測れません。

第6章

比較という罠

比較は、人生の意味を失わせる強力な要因になり得ます。

「あの人は成功している。」

「あの人は結婚している。」

「あの人は家を持っている。」

「あの人は海外旅行をしている。」

「あの人の子どもは優秀だ。」

「あの人は私より若いのに成功している。」

「あの人はSNSで人気がある。」

しかし、比較には一つの問題があります。

私たちは、他人の「公開された部分」と、自分の「内側」を比較するからです。

他人の成功は見える。

しかし、その人の恐れは見えない。

他人の笑顔は見える。

しかし、その人の涙は見えない。

他人の結果は見える。

しかし、その人がそこに至るまでに経験した苦労は見えない。

だから、比較はしばしば現実を歪めます。

第7章

「自分らしく」とは何か

現代では「自分らしく生きよう」という言葉がよく使われます。

大切な言葉です。

しかし、

「自分らしさ」

とは何でしょうか。

自分の欲望のままに生きることでしょうか。

誰にも制限されないことでしょうか。

自分の好きなことだけをすることでしょうか。

あるいは、もっと深いものなのでしょうか。

人間は「何をしたいか」だけではなく、

「何をすることが良いのか」

「何のために能力を使うのか」

「誰のために生きるのか」

を考える必要があります。

自由には方向性が必要です。

船にエンジンがあっても、目的地がなければ、速く移動できるだけです。

人生も同じです。

能力があっても、方向がなければ、必ずしも意味のある人生にはなりません。

第8章

私たちは何を求めているのか

人間の欲望には階層があります。

食べ物、安全、所属、尊重、自己実現など、人間にはさまざまな欲求があるとMaslow(1943)は論じました。

しかし、人間の欲求は単純な階段だけでは説明できません。

人は、自分の安全を犠牲にしてでも他人を救うことがあります。

自分の利益を捨てて家族のために生きる人もいます。

信念のために苦しみを受け入れる人もいます。

つまり、

人間は「生き延びること」以上のものを求める

ことがあります。

愛。

真理。

正義。

美。

善。

自由。

希望。

神。

こうしたものへの問いは、人間の精神生活の深い部分にあります。

第9章

お金は人生の目的になれるか

お金は重要です。

食事、住宅、教育、医療、交通、安全など、多くの生活上の必要を満たします。

しかし、お金には限界があります。

お金で家は買えても、「家庭」そのものを買うことはできません。

お金でベッドは買えても、安らかな眠りを買えるとは限りません。

お金で人を雇うことはできても、真の友情を買うことはできません。

お金で医療を受けることはできても、人生の意味そのものを購入することはできません。

だから、

お金は人生を支える手段にはなれても、人生そのものの究極的な目的にはなりません。

第10章

仕事は人生の目的か

仕事は、人間に意味を与えることがあります。

仕事を通して、

能力を使う。

人に仕える。

社会に貢献する。

収入を得る。

家族を支える。

専門性を発展させる。

こうしたことができます。

しかし、仕事だけを自分のアイデンティティにすると危険があります。

退職したらどうなるでしょうか。

病気で働けなくなったら。

失業したら。

会社がなくなったら。

仕事の役割を失ったとき、

「私は何者なのか」

という問いが戻ってきます。

だから、人間は仕事よりも深いところに自己の価値を置く必要があります。

第11章

家族は人生の目的か

家族は、多くの人にとって人生の大きな意味になります。

しかし、家族だけに自分の存在理由を置くことにも限界があります。

子どもは成長し、自立します。

配偶者を失うこともあります。

親を失うこともあります。

家族関係が変化することもあります。

だからこそ、

「家族を愛すること」

と

「家族だけが私の存在理由である」

ことは区別する必要があります。

人間には、家族を超えた、より広い意味への問いがあります。

第12章

人間は何のために生まれたのか

ここで、私たちは一つの根本的な問いに到達します。

人間には目的があるのでしょうか。

科学は、人間がどのように生まれ、どのように身体が機能し、どのように進化してきたかについて重要な説明を提供します。

しかし、

「人間が存在するなら、その存在には究極的な意味があるのか」

という問いは、科学的測定だけでは簡単に答えられません。

これは哲学的・形而上学的な問いです。

科学は、

「どのように」

を説明することに非常に強い。

しかし、

「なぜ究極的に」

という問いには、別の種類の思考が必要になる場合があります。

第13章

偶然なのか、目的なのか

人生を考えるとき、一つの大きな世界観の選択があります。

私たちは、

究極的には目的のない宇宙の中に偶然存在する存在なのか。

それとも、

意図を持つ創造主によって存在させられた存在なのか。

もちろん、これには哲学的議論があります。

自然主義的世界観では、自然現象を超自然的存在に訴えずに説明しようとします。

一方、キリスト教を含む有神論的世界観では、宇宙と生命の究極的な根拠として神を考えます。

ここで重要なのは、

「科学か宗教か」

という単純な二択にすることではありません。

科学は自然界について非常に強力な知識を与えます。

しかし、「存在そのものの究極的意味」という問いは、哲学や形而上学、宗教思想とも関係しています。

第14章

聖書が語る最初の答え

聖書は、人間について非常に根本的な主張をします。

人間は偶然の無意味な存在ではなく、神によって創造された存在だというのです。

創世記1章27節は、人間が神の「かたち」に造られたと語ります(Genesis 1:27, KJV)。

これはキリスト教的人間観の中心的概念の一つです。

「神のかたち」という概念は、人間が神と同一であるという意味ではありません。

むしろ、人間が神との関係の中で特別な尊厳を持つ存在として創造されたことを示します。

したがって、

人間の価値は、人間が何を所有しているかではなく、人間が何者として創造されたかに根拠を持つ

とキリスト教は考えます。

第15章

あなたの価値は「成果」ではない

現代社会では、価値が成果と結びつきやすくなっています。

高い成績。

高い給与。

高い地位。

多くの顧客。

多くの論文。

多くのフォロワー。

大きな会社。

しかし、キリスト教的人間観では、人間の尊厳は成果より前にあります。

赤ちゃんは何も生産していなくても価値があります。

高齢者が働けなくなっても価値があります。

病気の人にも価値があります。

障害のある人にも価値があります。

失業した人にも価値があります。

貧しい人にも価値があります。

成功した人にも価値があります。

そして、失敗した人にも価値があります。

これは、人間の尊厳について非常に重要な考え方です。

第16章

「私は誰か」へのキリスト教的回答

もし人間が神によって創造されたなら、

「私は誰か」

という問いへの答えは変わります。

あなたは単なる消費者ではありません。

あなたは単なる労働力ではありません。

あなたは単なる数字ではありません。

あなたは単なるSNSアカウントではありません。

あなたは単なる国籍でもありません。

あなたは単なる職業でもありません。

あなたは、創造主との関係の中に置かれた人間です。

この考え方は、現代社会におけるアイデンティティ危機への一つの重要な回答となります。

第17章

人間には目的がある

創造された存在には、創造の目的があります。

聖書の世界観では、人間は神を知り、神を愛し、他者を愛し、創造された世界を責任をもって管理するように召されています。

イエスは、人間の中心的な責任を、

神を愛することと、隣人を自分自身のように愛すること

としてまとめました(Matthew 22:37–39, KJV)。

ここには人生の目的についての重要な原則があります。

人生は「自分が何を得られるか」だけではなく、「自分が誰を愛し、何に貢献できるか」でもある。

第18章

自分だけのために生きるとどうなるか

現代文化では「自分を大切にする」ことが重要視されます。

これは必要なことです。

しかし、

「自分のためだけに生きる」

こととは違います。

人間は関係の中で生きています。

親。

子ども。

友人。

同僚。

隣人。

地域。

社会。

そしてキリスト教では神との関係。

人間の人生は、他者との関係から切り離すことができません。

だから人生の意味は、

「私は何を得るか」

だけではなく、

「私は何を与えるか」

にもあります。

第19章

愛は人生の意味を変える

人間の人生を根本的に変えるものの一つが愛です。

愛することは、自己中心的な人生から外へ向かうことです。

誰かを大切にする。

誰かのために犠牲を払う。

誰かを許す。

誰かを助ける。

誰かの話を聴く。

誰かの孤独に寄り添う。

こうした行為には、経済的価値に換算できない意味があります。

愛は、人間を「消費する存在」から「与える存在」へと変えます。

第20章

苦しみは人生を無意味にするのか

人生の意味を考えるとき、避けられない問題があります。

苦しみです。

病気。

死。

失業。

離婚。

孤独。

裏切り。

失敗。

災害。

戦争。

不正。

なぜ善良な人が苦しむのでしょうか。

なぜ悪いことが起こるのでしょうか。

もし人生に目的があるなら、なぜ苦しみが存在するのでしょうか。

これは宗教哲学の最も難しい問題の一つです。

本書は、この問題に簡単な答えを与えるつもりはありません。

苦しんでいる人に、

「それには意味があります」

と簡単に言うことは、時に残酷になり得ます。

苦しみは本当に苦しいものです。

涙を流している人に必要なのは、まず説明ではなく、共にいる人かもしれません。

第21章

フランクルと「意味」

ヴィクトール・フランクルは、極端な苦しみの中でも人間が意味を求めることについて論じました(Frankl, 2006)。

彼の議論は、

「苦しめば必ず成長する」

という単純な意味ではありません。

むしろ、

人間は状況によって完全に決定される存在ではなく、その状況に対してどのような態度を取るかという次元を持つ

という点にあります。

この考え方は、現代にも大きな示唆を与えます。

私たちはすべてを選べるわけではありません。

しかし、すべてを失ったように感じる状況でも、

「私はこれからどう生きるのか」

という問いが残ることがあります。

第22章

意味は「発見」するのか、「作る」のか

ここで哲学的な議論が生まれます。

人生の意味は、

最初から存在しているものを発見するのでしょうか。

それとも、

人間が自分で意味を作るのでしょうか。

実存主義の思想家たちは、自由、選択、責任、意味の問題を深く考えました。

サルトルは、人間の自由と自己形成を強調しました(Sartre, 2007)。

一方、キリスト教では、人生の意味は完全に人間が発明するものではなく、神との関係の中に与えられていると考えます。

この違いは重要です。

もし意味を完全に自分で作るなら、

「自分の意味」

と

「他人の意味」

が衝突する可能性があります。

もし意味が創造主から与えられるなら、人間の目的には、人間を超えた基準が存在することになります。

第23章

自由には責任が伴う

「私は自由だ」

という言葉は魅力的です。

しかし、自由には責任があります。

自分の選択は、他人にも影響します。

言葉。

行動。

お金の使い方。

仕事。

人間関係。

環境への態度。

社会への参加。

だから、人生の意味は単なる自己実現ではありません。

自由をどのように使うか

という倫理的問いでもあります。

第24章

私たちは何を残すのか

人間は死を避けることができません。

だからこそ、

「私は何を残すのか」

という問いが生まれます。

財産でしょうか。

会社でしょうか。

家でしょうか。

本でしょうか。

研究でしょうか。

子どもでしょうか。

思い出でしょうか。

人への影響でしょうか。

人生の終わりに、人は自分が所有したものよりも、自分が愛した人々や与えた影響について考えることがあります。

もちろん、人によって経験は異なります。

しかし、この問いは重要です。

「私がいなくなった後、私の人生は何を意味したと言えるだろうか。」

第25章

死を考えることは、生を考えること

死について考えることは、暗いことだけではありません。

死を意識すると、生きている時間の価値が見えてきます。

今日しか言えない「ありがとう」。

今日しか言えない「ごめんなさい」。

今日しかできない「愛している」。

今日しかできない助け。

だから、

死の現実を認識することは、生の価値を再発見することにもなります。

キリスト教では、死は最後の言葉ではありません。

そこに復活の希望があります。

第26章

聖書における創造

聖書の物語は、

「初めに神が天と地を創造された」

という言葉から始まります(Genesis 1:1, KJV)。

この一節は、単なる宇宙の起源についての説明以上の意味を持っています。

世界には創造主がいる。

存在には根拠がある。

人間は偶然の無意味な存在ではない。

この世界は神との関係の中で理解される。

これが聖書的世界観の出発点です。

第27章

「神のかたち」に造られた人間

創世記1章27節は、人間が神のかたちに造られたと述べます。

この概念は、人間の尊厳について極めて重要です。

もし人間の価値が経済的生産性だけで決まるなら、働けなくなった人の価値は下がってしまいます。

もし価値が美しさだけで決まるなら、老いは価値の低下になります。

もし価値が知性だけなら、認知能力を失った人の尊厳は弱くなってしまいます。

しかし、「神のかたち」という概念では、人間の尊厳はもっと深いところに置かれます。

人間だからこそ尊い。

これは現代社会においても強い意味を持つ考え方です。

第28章

しかし、人間は壊れている

ここでキリスト教の人間観には、もう一つの側面があります。

人間は尊厳を持つ。

しかし、人間は完全ではありません。

聖書は、人間の中に罪、自己中心性、破壊的欲望、不正、憎しみ、欺きが存在することを率直に語ります。

ローマ人への手紙3章23節は、

「すべての人は罪を犯した」

と述べます(Romans 3:23, KJV)。

ここでいう罪は、単なる「悪いことを一回した」という意味だけではありません。

神から離れ、自分を人生の中心に置こうとする人間の根本的な方向性も含みます。

だから人間は、

尊厳を持つ存在であると同時に、壊れた存在でもある

のです。

第29章

罪は「意味」の問題でもある

罪は道徳だけの問題ではありません。

それは方向性の問題でもあります。

もし人間が神との関係のために創造されたのに、神を無視して自己中心的に生きるなら、その人生は本来の目的から外れてしまいます。

それは、目的地を失った船に似ています。

エンジンは動いている。

速度もある。

しかし方向が違う。

人間の人生も同じです。

忙しくても、

成功していても、

有名でも、

お金があっても、

目的そのものから離れている可能性があります。

第30章

イエスは「人生の意味」にどう答えたのか

イエス・キリストは、

「人生の意味とは何ですか」

という現代的な言葉で講義したわけではありません。

しかし、イエスの教え全体は、この問いに深く関係しています。

イエスは神を愛すること、隣人を愛することを中心的な戒めとして示しました(Matthew 22:37–39, KJV)。

また、

「わたしに従って来なさい」

と人々を招きました。

つまり、イエスにとって人生の意味は、単なる哲学的概念ではありません。

誰に従って生きるのか

という関係の問題でもあります。

第31章

「わたしに従って来なさい」

イエスは弟子たちに「わたしに従って来なさい」と呼びかけました(Matthew 4:19, KJV)。

この招きは、単に宗教的な知識を増やすことではありません。

生き方を変える招きです。

価値観を変える。

優先順位を変える。

人を見る目を変える。

自分を見る目を変える。

神を見る目を変える。

人生そのものの方向を変える。

だからキリスト教信仰は、

「教会へ行くこと」

だけではありません。

キリストに従って生きること

です。

第32章

イエスは成功をどう見たのか

イエスは、人間の価値を富や地位だけで測りませんでした。

マルコ8章36節では、

「人が全世界を得ても、自分の魂を失うなら、何の益があるだろうか」

という趣旨の問いが示されています(Mark 8:36, KJV)。

これは非常に強い問いです。

世界全体を手に入れても、自分自身を失ったらどうなるのか。

キャリアを得ても、家族を失ったら。

富を得ても、平安を失ったら。

名声を得ても、愛を失ったら。

成功しても、神との関係を失ったら。

イエスは、

「何を得るか」よりも「何者になるか」

を問いかけます。

第33章

イエスは疲れた人を招く

人生に疲れる人がいます。

「もう無理だ。」

「何のために頑張っているのかわからない。」

「誰も私を理解してくれない。」

「未来が怖い。」

そういう人に対して、イエスはマタイ11章28節で、

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」

と招いています(Matthew 11:28, KJV)。

この言葉の重要な点は、

「すべて」

です。

成功者だけではありません。

失敗した人だけでもありません。

宗教的に立派な人だけでもありません。

疲れた人。

重荷を負った人。

そのまま来なさい。

という招きです。

第34章

イエスはあなたを知っている

人間の深い孤独の一つは、

「誰も本当の私を知らない」

という感覚です。

人前では笑っている。

しかし、心の中では泣いている。

人には「大丈夫」と言う。

しかし、本当は大丈夫ではない。

キリスト教は、

神はあなたを知っている

と語ります。

詩篇139篇では、神が人間の内面を知っておられることが非常に詩的に描かれています(Psalm 139, KJV)。

ここには恐れと慰めの両方があります。

すべてを知られている。

しかし、それでも見捨てられていない。

第35章

「あなたは愛される価値がある」以上のこと

現代社会では、

「あなたはそのままで価値がある」

というメッセージが語られます。

それは大切です。

しかしキリスト教のメッセージは、さらに一歩進みます。

あなたには価値がある。なぜなら、神があなたを創造されたから。

そして、

神は罪によって壊れた人間との関係を回復するために、キリストを与えた。

ヨハネ3章16節は、神が世を愛し、御子を与えたと語ります(John 3:16, KJV)。

ここにキリスト教福音の中心があります。

第36章

十字架――愛と罪が交差する場所

キリスト教の中心には十字架があります。

十字架は単なる宗教的シンボルではありません。

キリスト教では、イエス・キリストの十字架は、人間の罪と神の愛の問題に対する神の救いの働きとして理解されます(Stott, 1986)。

人間は神から離れている。

しかし神は人間を見捨てない。

だから神はキリストにおいて人間に近づいた。

そして十字架において罪の問題を扱った。

これがキリスト教の救いの中心的主張です。

第37章

救いとは何か

「救い」という言葉を聞くと、多くの人は宗教的な儀式を想像するかもしれません。

しかし、キリスト教における救いは、それ以上のものです。

罪の赦し。

神との関係の回復。

新しい命。

新しい方向。

希望。

そして永遠の命。

エペソ人への手紙2章8–9節は、救いが人間の功績ではなく、神の恵みによるものであることを強調します(Ephesians 2:8–9, KJV)。

つまり、

「私は十分に良い人間だから神に受け入れられる」

という考えではありません。

むしろ、

「私は神の恵みによって受け入れられる」

という考えです。

第38章

自分を救うことの限界

人間は、自分自身を改善しようとします。

もっと良い人間になる。

もっと努力する。

もっと善行をする。

もっと知識を得る。

もっと規則を守る。

これらは重要です。

しかし、キリスト教では、人間の問題は単なる能力不足ではありません。

罪という深い問題があります。

だから、人間は単に「もっと努力する」だけでは神との関係を完全に回復できないと考えます。

必要なのは恵みです。

第39章

復活――死が最後ではない

キリスト教信仰の中心には、イエス・キリストの復活があります。

使徒パウロは、キリストが死者の中からよみがえられたことを福音の中心として述べています(1 Corinthians 15:3–4, KJV)。

もし復活がなければ、キリスト教の希望は大きく変わります。

しかし、復活が真実であるなら、

死は最後ではありません。

罪は最後ではありません。

失敗は最後ではありません。

苦しみは最後ではありません。

絶望は最後ではありません。

だからキリスト教の希望は、単なる「前向きな考え方」ではありません。

それは、キリストの復活に根ざした希望です(Wright, 2003)。

第40章

「私はなぜ生きているのか」への答え

ここまで考えてきた問いをまとめてみましょう。

私はなぜ生きているのか。

キリスト教的には、

あなたは神によって創造されたからです。

あなたは、

神を知るため。

神を愛するため。

他者を愛するため。

与えられた能力を用いるため。

世界に仕えるため。

善を行うため。

真理を求めるため。

そしてキリストとの関係の中で新しい命を生きるために召されています。

人生の意味は、単に「自分が幸せになること」だけではありません。

神との関係の中で、自分が何者として創造されたのかを知り、その目的に従って生きること

にあります。

第41章

目的は一つの職業ではない

「神には私のための目的がある」と聞くと、

「では、私はどの職業に就くべきなのか」

と考える人もいます。

しかし、目的は必ずしも一つの職業名ではありません。

教師であっても、

医師であっても、

経営者であっても、

学生であっても、

主婦・主夫であっても、

技術者であっても、

芸術家であっても、

農業従事者であっても、

研究者であっても、

人生の目的を生きることができます。

問題は、

「何をしているか」だけではなく、「どのように、誰のために、それをしているか」

です。

第42章

小さな人生にも大きな意味がある

世界的に有名になる必要はありません。

何百万人に知られる必要もありません。

一人の子どもを愛する。

一人の高齢者を支える。

一人の孤独な人に電話する。

一人の学生を励ます。

一人の患者に優しく接する。

一人の同僚を助ける。

一人の人を赦す。

これらも人生の意味になり得ます。

キリスト教では、愛は規模では測られません。

小さな忠実さにも価値があります。

第43章

あなたの人生は誰かの答えになる

あなたが経験した苦しみは、他の人を助けるための理解へ変わることがあります。

孤独を経験した人は、孤独な人に寄り添える。

失敗した人は、失敗した人を理解できる。

喪失を経験した人は、喪失した人のそばにいられる。

赦された人は、他人を赦すことを学べる。

救われた人は、希望を伝えることができる。

人生の意味は、自分の人生だけで完結しません。

あなたの人生は、他の人の人生に影響を与えます。

第44章

日本社会で「意味」を取り戻す

日本社会には、勤勉、責任、秩序、忍耐、協調、細やかな配慮など、多くの価値があります。

しかし、どの社会でも、人間は「何のために生きるのか」という問いから逃れることはできません。

経済的発展だけでは、人生の目的を完全には説明できません。

技術の発展だけでも、意味を与えることはできません。

SNSだけでも、孤独を完全には解消できません。

教育だけでも、人生の最終目的を決定することはできません。

だから私たちは、

「もっと豊かになるにはどうすればよいか」

だけでなく、

「豊かになった人生を何のために使うのか」

を考える必要があります。

第45章

若者への問い

若い世代は、人生について多くの選択肢を持っています。

しかし選択肢が増えることは、必ずしも意味が増えることではありません。

「何を選んでもいい」

という自由は、

「では、何を選ぶべきなのか」

という不安を生むことがあります。

だから若い人には、

「何になりたい?」

だけでなく、

「どんな人になりたい?」

と尋ねる必要があります。

そして、

「あなたの人生を、誰のために使いたい?」

と尋ねることもできます。

第46章

高齢期にも目的がある

人間の目的は、退職した瞬間に終わるものではありません。

高齢者にも知恵があります。

経験があります。

物語があります。

祈りがあります。

愛があります。

若い世代に伝えられるものがあります。

社会が人間の価値を「経済的生産性」だけで測るなら、高齢者は不利になります。

しかし、人間の尊厳が創造主から与えられるなら、年齢によって人間の価値が消えることはありません。

人生の後半にも目的があります。

第47章

あなたの過去は、あなたの未来を決定しない

過去に失敗した人がいます。

間違った選択をした人がいます。

人を傷つけた人がいます。

自分自身を傷つけた人がいます。

夢を失った人がいます。

しかし、キリスト教の福音には赦しがあります。

「だから、あなたは永遠に過去の人間である」

とは言いません。

キリスト教は、

新しい創造

について語ります(2 Corinthians 5:17, KJV)。

過去を否定することではありません。

過去を認めながら、未来へ向かうことです。

第48章

あなたの人生はまだ終わっていない

もしあなたが、

「私は人生を無駄にしてしまった」

と思っているなら、

この本は一つのことを伝えたいと思います。

あなたの過去は、あなたの人生の全体ではありません。

今日があります。

そして、今日から始められることがあります。

誰かに謝る。

誰かを赦す。

誰かを助ける。

学び直す。

祈る。

神を求める。

聖書を読む。

教会を訪ねる。

専門家に相談する。

家族に電話する。

人生の方向を変える。

新しい一歩を踏み出す。

第49章

「神を探す」とは何か

神を求めることは、必ずしも最初から強い信仰を持つことではありません。

むしろ、

「神がいるなら、知りたい」

という小さな問いから始まることがあります。

「本当に神はいるのだろうか。」

「イエスとは誰なのだろうか。」

「聖書は本当に信頼できるのだろうか。」

「祈りは意味があるのだろうか。」

こうした質問を持っていても構いません。

信仰は、質問を持つことによって必ずしも破壊されるわけではありません。

真理を求めることそのものが、探究の始まりだからです。

第50章

イエス・キリストへの招き

本書の最後に、最も個人的な問いを置きたいと思います。

あなたはイエス・キリストを誰だと思いますか。

偉大な教師でしょうか。

歴史的人物でしょうか。

宗教の創始者でしょうか。

預言者でしょうか。

それとも、キリスト教が告白するように、

神の御子、救い主、そして主

でしょうか。

イエスは単に情報を提供するために来たのではありません。

人間を神との関係へ招くために来たとキリスト教は理解します。

ヨハネ14章6節で、イエスはご自身について、

「わたしは道であり、真理であり、命である」

と語ります(John 14:6, KJV)。

この言葉は、単なる哲学的命題ではありません。

招きです。

第51章

あなたは何を選ぶのか

人生には多くの選択があります。

どこで働くか。

どこに住むか。

何を学ぶか。

誰と結婚するか。

何を買うか。

どんな生活をするか。

しかし、それより深い選択があります。

「私は何を人生の中心に置くのか。」

お金でしょうか。

成功でしょうか。

名誉でしょうか。

快楽でしょうか。

自分自身でしょうか。

他人の評価でしょうか。

それとも神でしょうか。

キリスト教は、人生の中心に神を置くことを提案します。

そして、その中心にイエス・キリストを置きます。

第52章

「私はなぜ生きているのか」への最後の問い

この本のタイトルは、

「私はなぜ生きているのか」

でした。

しかし、最後には問いを反転させることができます。

「私はなぜ生きているのか」

だけではなく、

「私は、この与えられた人生をどう生きるのか」

です。

人生の意味について知識を得るだけでは十分ではありません。

意味は生きられる必要があります。

愛は実践されなければならない。

赦しは実践されなければならない。

希望は実践されなければならない。

信仰も生きられなければならない。

だから、本を閉じた後に始まる人生こそ重要なのです。

第53章

明日からできる10のこと

1.静かな時間を持つ

毎日10分でも、スマートフォンを置いて静かに考えてみましょう。

「私は今、何を追いかけているのだろう。」

2.「なぜ」を書く

自分の仕事、家族、夢について、

「私はなぜこれをしているのか」

を書いてみましょう。

3.自分の価値を成果から切り離す

今日何も達成できなかったとしても、

「私は価値がない」

とは考えないでください。

4.誰かを助ける

人生の意味は、他者への奉仕の中で発見されることがあります。

5.過去を整理する

自分の人生の重要な出来事を書き出してみましょう。

6.赦すべき人を考える

赦しは簡単ではありません。

しかし、赦しについて考えることは、心の方向を変える一歩になり得ます。

7.「私は誰か」と書く

職業や役割ではなく、自分の価値観、希望、信念を書いてみましょう。

8.聖書を読んでみる

初めて読むなら、ヨハネによる福音書から始めてもよいでしょう。

9.神に正直に話してみる

祈りは、美しい言葉でなければならないわけではありません。

「神様、もしあなたが本当にいるなら、私にあなたを知ることができるようにしてください。」

それだけでもよいのです。

10.イエスについて調べる

イエスについての福音書を読み、

「イエスは本当に誰なのか」

を自分自身で考えてみてください。

第54章

30日間「人生の意味」を考える旅

第1週:私は誰か

1日目:私は自分をどう説明するか。

2日目:私の大切な価値観は何か。

3日目:私が恐れているものは何か。

4日目:私が感謝しているものは何か。

5日目:私の人生で最も重要だった出来事は何か。

6日目:私は他人からどう見られたいか。

7日目:他人の評価がなくても私は何者か。

第2週:私は何のために生きるか

8日目:私は現在何を追いかけているか。

9日目:なぜそれを追いかけているのか。

10日目:お金が問題でなくなったら、何をするか。

11日目:余命一年なら何を変えるか。

12日目:私が残したいものは何か。

13日目:誰かの人生にどんな影響を与えたいか。

14日目:私はどんな人間になりたいか。

第3週:神について

15日目:神について私は何を信じているか。

16日目:私は神を恐れているか、求めているか。

17日目:創造という考え方について考える。

18日目:人間の尊厳について考える。

19日目:罪とは何か。

20日目:赦しとは何か。

21日目:祈ってみる。

第4週:イエスについて

22日目:イエスの誕生を読む。

23日目:イエスの教えを読む。

24日目:イエスが人々をどのように扱ったか読む。

25日目:十字架について読む。

26日目:復活について読む。

27日目:イエスが自分について何と言ったか読む。

28日目:私はイエスをどう考えるか。

29日目:私の人生を変えるとしたら、何を変えるか。

30日目:

「私は、これから誰に従って生きるのか。」

第55章

祈り――もしあなたが神を探しているなら

もしあなたがまだクリスチャンでなくても、この祈りを「宗教的な宣言」として無理に受け入れる必要はありません。

しかし、もしあなたが本当に神を探しているなら、次のように祈ることができます。

「神様。

私は、あなたが本当にいるのか分かりません。

私は人生の意味について迷っています。

私は自分自身についても分からないことがあります。

私の過去には、間違いもあります。

私の中には、自分勝手な部分もあります。

もしあなたが本当に私を造られたのであれば、私にあなたを知る道を示してください。

イエス・キリストが本当にあなたの御子であり、私の救い主であるなら、私にその真理を理解させてください。

私の罪を赦してください。

私の人生を新しくしてください。

私が自分中心ではなく、あなたを愛し、人を愛し、意味のある人生を生きることができるようにしてください。

私の人生に目的を与えてください。

アーメン。」

第56章

あなたはここにいてよい

この本を最後まで読んでくださったあなたへ。

もしかすると、あなたは人生に満足しているかもしれません。

あるいは、今とても苦しいかもしれません。

もしかすると、人生の意味について何も考えていなかったかもしれません。

あるいは、長い間ずっと考えていたかもしれません。

どのような状態であっても、一つのことを覚えていてください。

あなたの人生は、単なる数字ではありません。

あなたは履歴書ではありません。

あなたは銀行口座ではありません。

あなたはSNSのプロフィールではありません。

あなたは社会的地位ではありません。

あなたは失敗そのものでもありません。

あなたは他人の評価そのものでもありません。

あなたは一人の人間です。

そしてキリスト教は、

あなたは創造主によって知られ、愛され、神との関係へ招かれている

と語ります。

結論

「私はなぜここにいるのか」

私たちは、人生の意味を完全に説明できない日があるかもしれません。

すべての苦しみの理由を理解できない日もあります。

未来が見えない日もあります。

自分が何者なのか分からない日もあります。

しかし、それでも問い続けることはできます。

私は誰なのか。

何のために生きるのか。

誰を愛するのか。

何を残すのか。

何を信じるのか。

そして、

神は本当に私を知っているのだろうか。

キリスト教は、この最後の問いに「はい」と答えます。

神は人間を創造しました。

人間は神から離れました。

しかし神は人間を見捨てませんでした。

キリストにおいて、人間に近づきました。

十字架において罪の問題を扱いました。

復活によって死を超える希望を示しました。

そして今日も、

「わたしに従って来なさい」

と招いている、とキリスト教は信じます。

だから、本書の最後の言葉は、

「あなた自身で人生の意味を全部作りなさい」

ではありません。

むしろ、

「あなたが誰によって造られ、誰によって愛され、誰に従って生きるのかを探してください」

という招きです。

あなたが探している意味は、単なる成功の中にはないかもしれません。

財産の中にもないかもしれません。

名声の中にもないかもしれません。

他人の評価の中にもないかもしれません。

もしかすると、あなたが探しているものは、

関係

なのかもしれません。

神との関係。

そして、その関係を回復するために来られたイエス・キリストとの関係。

人生は短い。

だからこそ、重要です。

人生には苦しみがあります。

だからこそ、希望が必要です。

人生には失敗があります。

だからこそ、赦しが必要です。

人生には孤独があります。

だからこそ、関係が必要です。

人生には死があります。

だからこそ、復活の希望が重要になります。

そして人生には、

「私はなぜ生きているのか」

という問いがあります。

もしかすると、その問いを通して、あなたは最も重要な別の問いに導かれるのかもしれません。

「私を造られた方は誰なのか。」

そして、

「その方は、私に何を語っておられるのか。」

その答えを探す旅は、今日から始めることができます。

付録A

本書の中心命題

本書では、次の10の命題を中心に考察しました。

  1. 人間は意味を求める存在である。
  2. 成功だけでは人生の意味を完全に説明できない。
  3. 人間の価値は、成果だけでは決まらない。
  4. アイデンティティは職業や社会的地位だけでは説明できない。
  5. 人間には愛、関係、貢献、真理への欲求がある。
  6. 「どのように生きるか」と「なぜ生きるか」は異なる問いである。
  7. キリスト教は、人間を神によって創造された存在と理解する。
  8. 「神のかたち」は人間の尊厳の根拠となる。
  9. キリスト教は、罪によって壊れた神との関係がキリストによって回復されると教える。
  10. キリスト教では、人生の究極的な意味は神との関係とキリストに従う生き方の中に見いだされる。

付録B

読者のための30の振り返り質問

  1. 私は自分自身をどのように定義しているか。
  2. 私の人生で最も重要な価値は何か。
  3. 私は何を恐れているか。
  4. 私は何を愛しているか。
  5. 私は何を失いたくないか。
  6. 私はなぜ現在の仕事をしているのか。
  7. 私の人生における最大の成功は何か。
  8. 私の最大の失敗は何か。
  9. その失敗から何を学んだか。
  10. 私は他人の評価にどの程度依存しているか。
  11. お金がなくても意味のある人生を送れるか。
  12. 仕事を失ったら私は誰か。
  13. SNSをすべて失ったら私は誰か。
  14. 私は本当の友人を何人持っているか。
  15. 私は誰かを本当に愛しているか。
  16. 私は誰かを赦す必要があるか。
  17. 私は誰かに謝る必要があるか。
  18. 私の人生で最も意味があった経験は何か。
  19. 私は死についてどう考えているか。
  20. 死後の生命について何を信じているか。
  21. 私は神の存在を信じているか。
  22. もし神がいるなら、私は神に何を尋ねたいか。
  23. イエスについて私は何を知っているか。
  24. イエスについて何を疑っているか。
  25. 聖書について私は何を考えているか。
  26. 「神のかたちに造られた」という考えをどう思うか。
  27. 罪とは何だと思うか。
  28. 赦しとは何だと思うか。
  29. 私の人生の方向を一つ変えるなら、何を変えるか。
  30. 私は、これから誰に従って生きたいか。

参考文献

References

Aristotle. (1999). Nicomachean ethics (T. Irwin, Trans., 2nd ed.). Hackett Publishing Company.

Baumeister, R. F., & Leary, M. R. (1995). The need to belong: Desire for interpersonal attachments as a fundamental human motivation. Psychological Bulletin, 117(3), 497–529.

Cacioppo, J. T., & Cacioppo, S. (2014). Social relationships and health: The toxic effects of perceived social isolation. Social and Personality Psychology Compass, 8(2), 58–72.

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Wright, N. T. (2003). The resurrection of the Son of God. Fortress Press.

聖書参考箇所

Biblical References

本書では、主として以下の聖書箇所を参照した。

  • 創世記 1:1
  • 創世記 1:26–27
  • 詩篇 8
  • 詩篇 23
  • 詩篇 139
  • マタイ 4:19
  • マタイ 11:28
  • マタイ 22:37–39
  • マルコ 8:36
  • ヨハネ 3:16
  • ヨハネ 14:6
  • ローマ 3:23
  • ローマ 5:8
  • ローマ 6:23
  • コリント第一 15:3–4
  • コリント第二 5:17
  • エペソ 2:8–9
  • ピリピ 3:13–14
  • ヨハネ第一 4:9–10

聖書引用は主として King James Version (KJV) を参照し、日本語では意味を伝えるための表現を用いた。日本語の出版版では、採用する日本語聖書訳(新共同訳、聖書協会共同訳、新改訳等)に合わせて聖書引用を統一することが望ましい。

著者から読者へ

親愛なる読者へ。

あなたがこの本を手に取った理由は、単なる好奇心かもしれません。

あるいは、

「私はなぜ生きているのだろう」

という問いを、すでに長い間心の中に抱えているからかもしれません。

どちらであっても、この問いを大切にしてください。

人生の最も重要な問いは、いつも簡単な問いではありません。

しかし、難しい問いだからこそ、向き合う価値があります。

私はあなたに、何かを急いで信じてほしいとは思いません。

むしろ、考えてください。

問い続けてください。

調べてください。

聖書を読んでください。

イエスの言葉を読んでください。

そして、ご自身で判断してください。

もしイエスが単なる歴史上の人物ではなく、本当に神から来られた救い主であるなら、その事実はあなたの人生にとって無関係ではありません。

それは、

「私はなぜここにいるのか」

という問いそのものを変える可能性があります。

あなたの人生には意味があります。

あなたの人生には価値があります。

そして、キリスト教の福音は、

その意味と価値の最も深い根拠は、あなた自身の業績ではなく、あなたを創造された神にある

と語っています。

あなたがその真理を探す旅に踏み出すことを願っています。